琳派とは...

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三木では琳派の作品を取り扱っております。

琳派の柄は日本由来の親しみ深い図案であり
立体的・創作的な要素が盛り込まれ、江戸当時のお洒落な女性の心を掴んだ魅力的な意匠です。
格式の高くおめでたい柄ですので、金・銀を用いて、美しく仕上げられたものが多いです。 貴重なものとなってるものもあります。ぜひ、お問合せくださいませ。

琳派とは...

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世界に誇る美意識の継承と美の礎

琳派は、一七世紀はじめに京都の本阿弥光悦や俵屋宗達が平安の王朝文化の復興をめざして大和絵の伝統技法や題材を取り入れ、独創的な絵画や書、工芸を展開したのが始まりです。日本絵画の本流ともいうべき装飾画派であり、その美の系譜は今日のアートやデザインにも引き継がれています。琳派の名称の語源ともなった尾形光琳、そして乾山兄弟がこの様式を見事に発展させ、江戸時代に来朝したフェノロサが光琳を世界最高の装飾画家と呼ぶなど、海外でも注目を集めました。江戸文化は格式張ったものが多く、その対極ともいうべき革新的で風雅な意匠美は当時の最新モードとして政治の中心であった江戸の地で大きな花を咲かせ、酒井抱一や鈴木其一らによって江戸時代の終わりまで継承されています。

光悦・宗達が創始し、光琳・乾山が発展させ、江戸琳派へと継承された「美」の軌跡が、今、ここに。

「琳派」を立ち上げたマルチアーティスト。本阿弥光悦

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卓越したデザインセンスを持ち、日本のダ・ヴィンチとも称されています。刀剣の目利き役であった家業により培われた美を見極める力を基盤に、書・画・漆芸・陶芸の各分野で才を発揮し、マルチアーティストとして当時の文化の担い手であった京の上層町衆を牽引しました。とりわけ、書は「寛永の三筆」の1人に数えられ、色紙、短冊、和歌巻の名品を数多く生み、極限まで装飾化された琳派の礎を築いたとされています。京都洛北・鷹峯に日本美術のルネッサンスの地「光悦村」を開いたことでも知られ、多くの芸術家が結集し繁栄をみせ、王朝の美の復活に取組んでいます。

もうひとりの「琳派」創始者の天才絵師。俵屋宗達

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生没年不詳の天才画家。扇絵や掛軸などを手がける作画工房「俵屋」を率い、厳島神社の「平家納経」の修復にも参加するなど、早くからその実力が認められていました。
そして、もっとも宗達の才能を開花させ、世にその名を知らしめたのは本阿弥光悦であったと言われ、互いに刺激しあいながら、自ら考案した「たらし込み」「彫塗り」などの技法を用いて、最高傑作「風神雷神図屏風」などを創出。

既成の様式や意匠にとらわれない自由闊達な表現力や筆致は特に評価が高く、「形態の魔術師」と賞賛され、朝廷より絵師としての最高位「法橋」を与えられるまでに登りつめています。



「琳派」を極めた兄弟と江戸の画家たち。 尾形光琳 尾形乾山 そして江戸琳派

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光琳・乾山は京都の呉服商「雁金屋」に生まれました。光琳は最初狩野派に絵を学ぶものの、同じ京都の町衆出身の光悦や宗達の作風を慕うようになり、自由で流麗、装飾性あふれる画風を確立。「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」など国宝、重要文化財の傑作を多数生み出し、世界を代表する画家へと駆け上がりました。乾山もまた兄とともに豊かな芸術的環境に育ち、触発しあいながら作陶を学び、三十六歳のとき乾山焼を興しました。それまでの「写しもの」が主流であった陶器の世界に絵画性を吹き込んだ作風は日本陶芸史に不滅の輝きを放ち、京焼・清水焼の発展の礎となったと言われています。光悦、宗達に始まり、光琳と乾山によって、芸術の高みにまで極められた琳派の世界。その後の、渡辺始興や酒井抱一、鈴木其一といった江戸文化の一翼を担う多くの画家たちによって伝えられていきました。中には、画風を変貌させる風雲児もいたものの、粋さ、大胆さ、斬新さといった気風や味わいは不変のもので、近代の日本画にも多大なる影響を及ぼしています。

琳派の系譜

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尾形光琳(おがたこうりん)(1658-1716)

桃山時代から続く京都の呉服商「雁金屋」の次男として生まれる。父の宗謙は能楽や書画などに秀でた風流人であった。絵は最初狩野派に学ぶが、同じ京都の町衆出身の本阿弥光悦や俵屋宗達に深く共感し、その作風を慕うようになり、やがて自由闊達で流麗、装飾性あふれる作風を確立する。最高傑作「紅白梅図」「燕子花図屏風」など国宝、重要文化財の絵画を数多く手がけた一方で、弟の乾山の陶器に絵付けをしたり、蒔絵や染織の分野でもすぐれた意匠を残す。中でも、季節の草花や流水を描いた図案は「光琳模様」と呼ばれ、「琳派」の人達によって後世に受け継がれる。

尾形乾山(おがたけんざん)(1663-1743)

光琳の弟。「雁金屋」の三男として京都に生まれる。光琳とともに豊かな芸術的環境に育つ。派手好みの兄、もの静かで内省的な弟と対照的だが、妥協を許さない作り手同士認め合い触発し合っていたと伝えられる。野々村仁清に作陶を学び、37歳のとき鳴滝窯を開いて乾山焼を始める。それまでの京都の焼物は中国などの優品を手本とする「写しもの」が主流であったが、乾山は華やかな色彩とデザインを取り入れ、独特の意匠化された作品を多数生み出す。兄・光琳が絵付けを行うなど、陶器に絵画性を吹き込んだ作風はその後の京焼・清水焼の発展に大きな影響を与える。

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